何気に入った公衆トイレの中は異世界だった。外に出ようとしても出られない……。トイレの入り口にいる男の子は少し険しい顔で言う。
「このままでは死んでしまうよ。助かりたかったら僕の言うことを聞いて」
落書き
私は仕方なく、男の子の『子供の遊び』に少し付き合う事にした……。
私は壁の落書きに目がいった。
【時計台を探してみて! わかるかな?】
私は何となく、その落書きの指示に従った。時計台はすぐ近くにあり、柱には、また落書きがあった。
【この公園で一番大きな屋根付きの家の真ん中だよ! わかるかな?】
屋根付きの家?
休憩所の事かな……目の前には休憩所があり、真ん中の柱に落書きがあった。
【この公園には桜の木以外に一本だけ梅の木があるよ! わかるかな?】
私は辺り一面を見渡した。鮮やかな桃色と春の暖かいそよ風が何とも言えない高揚感に浸される。その中で一本だけ白い花びらをつけた木があった。
あれかな?
梅の木。私は駆け足でその木に向かった。梅の木の前には白い石があり、今度は少し長めの意味深な落書きが書いてあった。
【結局、自分が動かなければ始まらない。少しずつでいいから進んでいこう。いずれは大きく動くから。わかるかな?】
なぞなぞか……?
私はすぐにひらめいた。
ブランコ?
ブランコがある所に行ってみると鉄柱に落書きがあった。
【この公園で一番落書きが多い所で、〝弱者〟が必死に辿り着いた入り口だよ! わかるかな?】
あの公衆トイレの事かな?
私は、あのネズミの死骸があったトイレにまた戻った。 さっきの状態と変わらずネズミの死骸がある。
【壁の落書きは【時計台を探してみて! わかるかな?】
トイレの中に落書きがあるのかな。私はトイレの中に入った。入った瞬間何やら異様な空間を感じた。落書きは見当たらないな。
そう思いながら、外に出ようとすると、男の子が入り口の前に突っ立っていて少し険しい表情をしていた。
私はネズミの死骸に一瞬だけ目を向け、こう言った。
「もう死んでいたんだ。多分、カラスか野良猫にやられたのだと思う……」
「違うよ」
男の子はネズミを見つめながら首を左右に振った。
「違う?」
「トイレの中に入ったからだよ」
私は意味が分からなかった。
「天井を見上げてみて」
男の子にそう言われて見てみると落書きがあった。
【おめでとう! ゴールだよ! 死の入り口にようこそ!】
死の入り口?
「私は死ぬのか?」
男の子に冗談半分でそう尋ねると無表情で黙っていた。私は、とりあえずトイレの外に出ようとすると男の子はこう言った。
「このままでは死んでしまうよ。助かりたかったら僕の言うことを聞いて」
私は仕方なく、男の子の『子供の遊び』に少し付き合う事にした。
「それは困るな、何をすればいいんだい?」
「そのネズミを助けてあげて」
「それは無理だよ。もう死んでるよ……」
「そのネズミを入り口の外に出せば助かるよ」
私は心の中でこう思った。このネズミを触るのか……仕方がないな……。私は恐る恐るゆっくりとネズミをトイレの外に出した。
しばらくすると、死んでいたはずのネズミがピクピクと動きはじめた。お腹の傷もなくなり、元気に走り去っていった。
私は何が何だか訳の分からない状況に自分の目を疑った。そして、いつの間にか男の子の姿は消えていた。
私はトイレの外に出ようとしたが出られない。見えない壁があるのか、とにかく外の景色は見えるのに出られない。
このまま死んでしまうのか?
不安になり、助けを呼ぼうとするとスーツを着た若い男性が慌ててトイレに入ってきた。若い男性は深い溜め息をつきながら便器の前に立った。
とりあえず、済んでから話し掛けよう……。
私はそう思いながら少し安心し、終えるのを待った。
「…………」
長いな……よっぽど我慢していたのか?
それにしても長すぎる。もう五分は軽く過ぎているぞ。大丈夫なのか……。
約十分ぐらいが過ぎた所で私はたまらなくなり話し掛けた。
「あの……止まる気配がなさそうですが、大丈夫ですか?」
若い男性は焦っていたが、無言だった。
私の姿が見えていないみたいだ。そう不思議に思っていると、さっきとは違う男の子がトイレに入ってきた。
その若い男性にニヤニヤしながら何かを話していた。男の子は一瞬だけ私の方を見て去って行った。
次に老人がヨロヨロと歩きながら、トイレに入ってきた。
「おじいさん、私の姿が見えますか?」
とっさにそう言うと私の方を見つめ、すぐに目を反らして便器に向かった。じいさんは私の姿が見えているみたいだ。良かった……。
若い男性は、そのじいさんに話し掛けている。
「もうかれこれ二十分ぐらい尿が止まらないんだ。どうしよう……」
じいさんは無言だった。若い男性は少し大きな声で「じいさんっ!」と叫んだ。
じいさんは耳が遠いのか、話し掛けても無駄だな…。私はそう落胆し、老人は去って行った。 私の微かな望みは消えてしまった……。
私のこの状況も不思議だが、この若い男性も不思議だ。
彼は、なぜ尿が止まらないのだ?
「現実を受け入れていないからだよ」
また違う男の子が現れた。
「君は一体何者なんだ?」
私は少し興奮した。
「僕は天使の卵だよ」
「天使の卵?」
「ここのトイレにくる人間を観察して勉強するんだ。人間は〝用〟をたす時が一番無防備で本当の姿が表れるからね……」
男の子は溜め息をつきながら、さらに話しを続けた。
「人間はトイレを綺麗に使わない。公衆の所なら尚更だ。落書きをしたり、ゴミや吸殻を平気で捨てたり、一番お世話になっている場所なのに悲しくなるよ……」
男の子が言うことに私は一人の人間として恥ずかしくなった。
「私は昨日リストラされ、勤めていた時はこの公園の公衆トイレをよく使っていました。これからは恩返しのつもりで、この公衆トイレを綺麗に管理しますので、どうか彼を助けて上げて下さい」
男の子は、しばらく無言のまま天井を見上げ、そしてゆっくりと口を開いた。
「この落書きも人間の仕業なんだよ。だから、僕はこのトイレを本当に〝死の入り口〟にしたんだ」
私は今になって、この状況が恐ろしくなってきた。
貼り紙
膀胱が破裂寸前……。
俺は必死の思いで、公園のトイレに駆け込んだ。至福の瞬間……。俺は目を閉じて、少しずつ穏やかな、優しい気持ちになっていく。
よく頭の中を真っ白にして何も考えずに瞑想するのは、なかなかできる事ではないと言うけれど、この一瞬だけは簡単にできる。さすがにギリギリまで耐えただけあってよくでるな。
確か、膀胱そのものの容量は成人で五百ミリリットルくらいで、究極の限界は八百ミリリットルらしいから……。
もし、究極の限界で転んだりしたら破裂してしまう……危ないところだった。
それにしても、やけにながいな、止まる気配がしない。
俺は腕時計の秒針を見た。一分が経過……。
おいおい、大丈夫か?
少し心配になってきた。かと言ってどうする事もできない。ただ、ひたすら終わるのを待つだけだ。
しかし、二リットル以上は出ている。普通ではない。限界容量を越えている。俺は無理矢理止めようとしたが、それでも止まらない。
別に急いでいる訳ではないけれど、気持ちは凄く焦っている。
焦ることはない、あれだけ我慢したんだ、このくらい出てもおかしくはない……。そう自分に言い聞かして、気持ちを落ち着かせた。
ながすぎる……。
このままずっと止まらないのか?
どうなってしまうのだ?
干からびてしまうのか?
干からびる……?
思考がおかしくなってきた。
しばらくすると子供が隣に来て、俺の方をチラッと見てズボンをおろした。
「そこの便器でしちゃったの? もう止まらないよ……」
子供は残念そうな顔をした。
「えっ? どういうこと?」
「貼り紙見なかったの?」
俺は目の前にある貼り紙に今気づいた。貼り紙には、この便器は止まりませんと書いてあった。
「見てなかったんだ……というより、見る余裕がなかった。どうすればいいんだ?」
そう言うと、子供は少し呆れた顔をしてこう言った。
「大人なんだから自分で考えれば?」
子供は遊び場に走って行った。次に杖をついた老人がゆっくりと歩いてきた。俺の存在を気にする事もなく隣にきた。
それが普通だが、今の俺の状態は普通ではない。助けを求めたいが、どう言えばいいのか……。
もし、隣の人に「尿が止まらないんです! 助けて下さい!」といきなり言われたら変な奴と思って絶対無視するよな。でも、一応言ってみよう……。
「じいさん、もうかれこれ二十分ぐらい尿が止まらないんだ……どうしよう……」
老人は無言のまま目を閉じている。
「じいさんっ!」
少し強い口調になってしまった。
耳が遠いのか?
老人は出し終えると、またゆっくりと歩いて出て行った。
俺は死んでしまうのか?
尿が止まらなくて死ぬなんて聞いた事がない。そんな恥ずかしい死に方は嫌だ……。
「まだ、しているの?」
さっきの子供がニヤニヤしながら戻ってきた。
「う、うん……止まる方法を知っているのなら教えてくれないかな?」
俺はすがる思いで聞いた。
「大人なのにわからないの?」
「…………」
俺は満面の笑顔だったが心の中は鬼の形相だった。
「貼り紙をよく見たらわかると思うけど……」
俺はもう一度貼り紙を見たが流水の事だと思った。
「流水のことではないのかい?」
「違うよ……大人になると頭がよくなると思っていたけど逆なんだね」
俺は少しだけ顔も鬼の形相になった。
「大人は貼り紙に書かれた事をあまり守らないから、こんな事になるんだよ」
子供が説教を始めた。
「ゴミはくずかごへ。お年寄りに席を譲りましょう。迷惑駐車はやめましょう。大人は貼り紙に書かれている事を見て見ぬふりをする……」
「確かにそうだね……今の俺のようにね……」
この状況より恥ずかしくなった。
俺は貼り紙をもう一度見た。
【この便器では止まりません】
この便器では……?
俺は三つある便器の真ん中にいる。
「そうかっ! 隣の便器に移動すればいいのか!」
そう言って子供の方を見ると姿はなかった。
遊びに戻ったのか……子供は自由だな。 俺はそう思いながら隣の便器に移動しようとすると、もう一枚の貼り紙が目に入った。
【トイレは綺麗に使いましょう】
今回だけは見逃して下さい……俺は隣の便器に移動した。
止まらない……。
子供がゲラゲラと笑いながら、また戻ってきた。
「移動したの?」
「移動しても止まらないぞ!」
俺はイライラしてきた。
「入り口の貼り紙見なかったの?」
「入り口?」
俺は貼り紙の内容を聞いた。子供は、その貼り紙を剥がして俺の所に持ってきた。
「見たい?」
子供は焦らして遊んでいる。
「見せて……お願い……」
「もう少し遊びたいけど、どうしようかな?」
「頼む見せてくれ!」
俺は必死の思いで叫んだ。子供が渋々、貼り紙を見せると、こう書いてあった。
私は、あれから毎日この公衆トイレを掃除している。
それでも当たり前の様に落書きをしたり、汚していく無神経な人間が悲しかった。私は、この公衆トイレを綺麗に保つ為にある貼り紙を書いた。
【この便器は生きている人間は止まりません。死んでいる人間のみ止まります】
この貼り紙の効果なのか、なぜかトイレは綺麗に使われる様になった。
気味悪がって、よっぽどの事がない限り、誰も寄り付かなくなった。
それでも、私は毎日トイレ掃除を続けていった。
トイレ掃除をしている彼の姿を空から見つめながら、男の子達はこう言った。
「あんな貼り紙がなくても、もう誰も寄り付かないのにね」
「そろそろ彼に教えてあげれば?」
「ずっとこのままにしておくよ。 公衆トイレで首吊り自殺したのは、汚す汚さない以前の問題だからね」
俺は張り紙を読んだ。
【このトイレは死んでいる人間のみ止まります。生きている人間は止まりません】
止まった……。
👉白い誘惑